ご乗車ありがとうございます!
年末——それは、カレンダーと肝臓にとって試練のシーズンである。
タクシー運転手にとっても例外ではなく、12月の繁華街はまさに“酔っ払いサファリパーク”と化す。右を見ても千鳥足、左を見ても見知らぬ人と語り合うサラリーマン。そんな中、私がその夜ピタリと停めたのは、広瀬通一番町のタクシー乗り場。時刻は終電が終わった頃で、いよいよタクシーの時間帯だ。
そのとき乗ってきたのは、男性二人と女性一人の三人組。声のトーンや立ち位置、そして名刺交換もなく自然に会話しているところから、どうやら職場の仲間らしい雰囲気が漂っている。酔いは回っているが、乱れてはいない。今のところは、ね。
「45号線、多賀城までお願いします」
こう告げられた瞬間、思わず心の中で「よっしゃー」と叫んでしまった。仙台から多賀城までは、時間にしておよそ30分弱、距離は約13km。深夜料金付き、かつ渋滞ゼロのゴールデンタイムである。短距離のワンメーター客が3人連続で続いた直後だった私にとって、この距離はまるで冬のボーナス。
しばらく走るうちに、後部座席から聞こえてくる会話に、つい耳がダンボになっていく。
「部長、今日もお疲れさまでした!」「ほんと、部長カラオケ強いっすね〜」
「えー?そんなことないってぇ〜!」と女性の声。
そう、後部座席の女性はどうやら“部長”らしい。そして一緒に乗っている男性たちは、どう聞いても部下だ。会話の端々から、それが自然に伝わってくる。
酔っ払いの会話というのは、時に無限ループを起こす。「いや〜ほんと、部長には感謝しかないっすよ」「部長、だいぶ酔ってるようですが、一人で帰れます? 家まで送りますよ?」
「だいじょーぶ!全然、しんぱいないからぁ〜!」と、明らかに心配しかない返答が返ってくる。
このやり取り、タクシー運転手としては少し気がかりになる。長年の経験から、「このタイプの“だいじょーぶ”は、だいたいダメなやつ」という法則がすでにインストールされているのだ。
とはいえ、タクシーは順調に進み、最初の男性が高砂駅前で降りた。
「じゃ、部長、また月曜に〜」「おつかれさまでしたー!」と元気に降車。
続いて中野栄駅近くで二人目の男性も降りる。
「部長、気をつけてくださいね!ホント、大丈夫ですか?」「だーいじょーぶよ!ありがと〜!」
その瞬間、後部座席はシン……と静まり返った。
いよいよ、女性部長と私の“サシの帰路”が始まる。
この時の私はまだ知らなかった。これから起こるあの“事件”を——。
一人旅の始まり、嫌な予感的中…
中野栄を過ぎたあたりから、後部座席の空気が少しだけ重くなる。
いや、正確には「重く感じるようになった」と言ったほうが正しいかもしれない。男性陣が降りた直後、車内は妙に静かだ。先ほどまで部下たちに囲まれていた女性部長は、急に“完全な一人”となった。その静けさと、酔いの勢いが相まってか、さっきまで明るかった声が、だんだんと呂律の緩い独り言へと変わっていく。
「しゅごいねー…この道、まっすぐねぇ……」
「タクシーって、すごいわぁ……うごくもん……」
そうです、部長、タクシーは基本的に動く乗り物なんです。
ちょっとした名言(迷言?)を残しながら、部長はうつろな目で車窓を見つめている。私はルームミラー越しに何度もチラ見しつつ、「頼む、持ちこたえてくれ」と祈りながらハンドルを握る。
目的地の多賀城・八幡はもう目と鼻の先。あと5分もすれば、ゴールインだ。さっきまでの不安は杞憂だったか?と思いかけた、そのとき——
「とめてぇぇぇぇ……!!!」
突如、車内に響く、絞り出すような叫び声。
「えっ!?ど、どうしました!?」と私が動揺しながらブレーキをかけると、ルームミラーに映る部長は、明らかに様子がおかしい。
顔面蒼白、口を押さえ、今にも…という緊急事態。
「吐きたいの!……いますぐに……」
…あぁ、ついに来てしまった。
心の中では「お願い、あと5分だったんだよ!」と叫びながら、車を路肩に急停車。
車内で吐かれるのだけは、どうか勘弁していただきたい。今夜の稼ぎが、文字通り水の泡どころかゲロの海になる。
ドアが開くと同時に、女性部長は歩道へダイブ。まるで長距離マラソンを走り終えた選手のように四つん這いになり、ゲーゲーと音を立てて嗚咽を繰り返す。これは完全に“第一波”だ。経験則でわかる。
私は「背中さすっても…いいですか?」と恐る恐る声をかけた。
「…おねがいします…」と、か細い声が返ってくる。
これが業務なのか、善意なのかはもはや不明。が、人として、さすってしまう。もう何人目かわからない“酔いどれの背中”である。
そしてその後、静寂を破って聞こえてきたのは、またしてもゲー、第二波。
そのとき、背後からパトカーが静かに停車する音が聞こえた——
“これは、もっと面倒になるぞ…”
路肩ドラマ〜吐き気という名の波状攻撃〜
「これは完全に、第二波ですね……」
私の経験上、“第一波”のあとには“余震”のような“第二波”がやってくる。
まるで地震のように、その規模とタイミングは予測困難。だが、来る。ほぼ確実に来るのだ。
女性部長は、路肩に膝をついたまま、まさに今その余震の真っただ中にいた。
私はというと、背中をやさしくさすりながら、心の中で「どうか、あとちょっとで収まってくれ…」と祈る。
祈るのだが、そんなときに限って、神様は沈黙を選ぶ。
そして、運命はさらなるイベントを用意していた。
🚨 パトカー登場。
「……まじか。」
この状況でのパトカーは、まさに“サプライズゲスト”である。
歩道に四つん這いになって動かない女性と、その背中を黙々とさする中年男性。どう見ても、事故か事件。いやむしろ、何かしらの“現場”にしか見えない。
パトカーがスーッと近づき、ゆっくりと停車。中から警察官が降りてきた。
「どうしました!? 事故ですか!? はねたんですか!?」
声は真剣。こっちは真剣というより、もはや苦笑いの極地。
私はすぐに手を挙げて、誤解を解こうと説明する。
「いえ、違います!飲みすぎで…酔って…ちょっと…その、今、“出してる”ところでして……」
事情を聞いた警察官は一瞬きょとんとした後、口元に薄く笑みを浮かべた。
「なーるほどね、酔っぱらいか。交通事故じゃないなら、我々は失礼します」
そう言ってパトカーに戻ろうとしつつ、こちらを振り返り、
「運転手さん、大変ですね。でも、ちゃんと送り届けてあげてくださいね」
と一言。優しいんだか、突き放してるんだか、判断に迷うメッセージを残して去っていった。
さて、残されたのは、なおもゲーゲー中の部長と私。
三角表示板を車の後部に置いて安全を確保しつつ、引き続き背中をさすり続けるという、年末の深夜にしてはだいぶ非日常的な姿勢での“介護任務”を遂行。
数分後、ようやく女性部長の呼吸が整い、「……もう大丈夫です」との言葉が。
「では、車に戻りましょうか。もうすぐ着きますから」
私はやや汗ばんだ手でドアを開け、部長を客席に誘導。
こうして、ドラマチックな路肩ゲー劇場は幕を閉じ、再びタクシーは静かに動き出した。
目的地まで、あとほんの数分。されど、長い数分である。
登場、深夜のヒーロー…パトカー
さて、先ほども少し登場しましたが、今回の物語には欠かせない“名脇役”がいます。
そう、それが——パトカーです。
女性部長の「緊急ゲー」によって始まった路肩劇場。
私が三角表示板を設置して、背中をさすりながら「このまま何事もなく終わりますように…」と神にも仏にもお願いしていた、その矢先。
暗闇の中から、赤と青の光が静かに、そして堂々と近づいてくる。
例えるなら、ヒーローショーの最後に颯爽と登場する助っ人。
ただし今回は、別に助けてくれとは一言も言ってない。
パトカーがスーッと停まり、降りてきた警察官の足取りは早い。
深夜の静寂を切り裂くように、問いかけてくる。
「どうしました!? 人が倒れてますけど、事故!? ひかれた!?」
いや、そんなつもりは全然なかったんです。ただ酔って倒れただけなんです。
しかし、目の前にある光景だけを見たら、そりゃそう思うだろう。
四つん這いで吐いている女性と、背中をさする男性。
うん、普通に考えたら不審だ。説明がなければ通報されていても不思議じゃない。
私は慌てて、でも冷静を装いながら答える。
「違います、事故じゃないんです。酔っちゃって…吐きそうだって言うから、今、路肩に停めて……」
すると警察官の表情が一変し、ふっと笑った。
「あ〜なるほど。年末あるあるですね〜」
一瞬、空気が和む。その場の緊張が、ほんの少しだけほどける。
「事故じゃなければ我々はこれで失礼します。ただし、ちゃんと家まで送ってあげてくださいね。責任、ありますから」
と念を押され、私は深くうなずく。
そのあと警察官は、もう一度女性部長の様子を見て、「おだいじに」と優しく声をかけ、去っていった。
パトカーのテールランプが遠ざかっていくのを見送りながら、私はなんともいえない気持ちになった。
「これ、たぶん普通の日勤タクシーじゃ経験しないよなぁ」と。
背中をさすって、パトカーに説明して、三角表示板を設置して…
なんだか一晩で色んな“職種”を体験したような気分だ。
でも、こういう「何でも屋」的なところも、タクシー運転手の醍醐味かもしれない。
酔っぱらいを運ぶだけが仕事じゃない。ときには、酔っぱらいを介護し、ときには警察と連携し、ときには心でそっと祈るのだ。
そして、ようやく女性部長が顔を上げ、「すみません、もう大丈夫です」と一言。
その目には、さっきまでの“部長の貫禄”はなく、少しだけ反省した人間の表情があった。
よし、行きますか。
エンジンをかけ、再び多賀城へと走り出す。
終点はすぐそこだ。ドラマの幕引きが、近づいている。
あと5分の壁、そして感謝の心
エンジンを再びかけ、車が静かに発進する。
目的地の多賀城・八幡までは、もうほんの数分——正確に言えば、たった5分ほどの距離。
この5分間を先に乗り越えてくれていたら、私も、部長も、車も、すべてが平和だったかもしれない。
が、それは“たられば”。夜のタクシー稼業において、過去のifはただの思い出話である。
助手席の部長は、ようやく吐き気の波から解放され、深く呼吸を整えていた。
さっきまで「しゅごいね〜」とか「うごくもんね〜」とか言っていた人とは思えない落ち着きようだ。
人間、ゲーを乗り越えると一回り成長する説は、たぶんある。
そして、静かに住宅街へと車を進めていく。
やがて八幡の目的地に到着。
「こちらでよろしいですか?」と聞くと、部長はうなずいた。
そのうなずきには、言葉にしづらい“申し訳なさ”と“ありがたさ”がにじんでいた。
「本当に……ごめんなさい。車内、汚れてませんか?」
部長が心配そうに聞いてくる。
実際、奇跡的にも車内は無傷。座席も床も、吐瀉物ゼロの無傷ゴール。
これ、ある意味で彼女の“自制心と体幹の勝利”である。
「大丈夫ですよ。間に合ってよかったです」と私が笑って返すと、部長は少しほっとした表情に。
そして、カバンからタクシーチケットを取り出し、記入を始める。
そのとき、私の目にちらりと映ったのは——
メーター料金よりも、ちょっぴり多めに書かれた金額。
「……これ、もしかして気持ちですか?」
と聞くと、部長は「はい、ほんの気持ちですが……さっきは本当にすみませんでした」と。
深夜の住宅街にて、部長の少し照れた声が響く。
そう、こういうところなんだよな。
たとえゲーしても、最後に感謝と誠意を見せてくれる人がいる。
だからこの仕事、やめられない。色んな人が乗ってくるけど、人の“素”が見える仕事でもある。
運転席から軽く頭を下げ、「おつかれさまでした。お大事に」と告げると、部長は「ありがとうございました」と深くお辞儀をして、千鳥足にならないよう、ゆっくりと歩いていった。
ふぅ……終わった。
吐かれなかった、事故もなかった、警察にも説明できた。
これぞ“完璧なトラブル”だった。
年末あるある、タクシー運転手のちょっといい話
年末の夜は、街が賑やかで、人々が少しだけ無防備になる。
タクシーには、そんな“ほぐれた人間模様”が乗ってくる。
今回の女性部長の一件は、酔っぱらいエピソードとしてはなかなかの強者だったけれど、
それ以上に「人って、いいな」と思える瞬間も詰まっていた。
・部下に気遣われていた“部長”という存在
・見知らぬ運転手に背中を預けてくれた信頼
・最後にチケットに上乗せしてくれた、気遣いと感謝
タクシーの車内は、時に小さな社会の縮図。
そして私は、そんな一人ひとりの「帰り道」を、今日も運んでいる。
年末はまだ続く。
きっとまた、忘れられないドラマがやってくるだろう。
でも、まずは今日は一言。
「部長、ナイスファイトでした」