当日の気候
2025年6月18日(水)、多賀城までの仕事を終えた私は、帰路の途中で多賀城碑へ立ち寄ることにしました。
この日は高気圧に覆われて快晴、最高気温は30度と6月としてはやや高めでしたが、東北特有のからりとした空気で湿度は低く、日陰に入ると涼やかな風が頬を撫でてくれました。
濃い青空が広がる中、車の窓を全開にして聞こえてくる風のささやきは、まるで当時の奈良時代からの歴史がささやきかけてくるかのようです。
初夏の日差しを浴びながら駐車場に車を停め、横断歩道を渡り階段を上りました。
アクセスと駐車場の様子

多賀城碑へは車が便利で、仙台市街から利府街道を経由し、岩切から陸前山王方面へ向かうルートがおすすめです。ナビに沿って進むと、鳥居や碑が見えてくるポイントで左折すると、駐車場入口に到着します。
舗装状況:平坦な砂利敷で、雨天後でもぬかるみが少ない
駐車台数:およそ40台分(普通車)
駐車料金:無料
徒歩で訪れる場合は、JR東北本線「国府多賀城駅」から出て徒歩約10分。駅前からは観光案内所の看板も整備されており、迷わずにたどり着けます。
しっかりと整備された駐車場とわかりやすいアクセスで、初めての訪問でも安心して多賀城碑を目指せるのが魅力です。

境内の再整備:赤い鳥居(門)の印象
駐車場から歩みを進めると、まず目に飛び込んでくるのが深紅に塗られた大きな門構え──赤い鳥居とも門とも言えるこの構造物です。太い柱、左右の腕木(笠木・島木)は幅約3メートルに及び、風雪に耐えうる頑健さを感じさせます。鮮やかな朱色が青空に映え、背後に広がる緑の丘とのコントラストは圧巻。遠くからでもその存在感はひときわで、まるで奈良時代の古図から抜け出してきたかのような威厳をたたえています。
かつては多賀城碑がぽつんと小高い丘の上で外柵に囲まれて佇んでいるだけでしたが、この再建門の設置により、参道に入る前から歴史への入り口に立ったかのような高揚感が生まれています。朱の門をくぐると、参道が緩やかに登り、視線の左先に多賀城碑が据えられている構図は、古代の軍事・行政拠点としての堅牢さを想起させます。軍装を整えた坂上田村麻呂の姿が思い浮かぶほどの、力強く凛とした空気が境内に漂っています。
多賀城碑の概要と配置
朱の門を抜けて参道を進むと、緩やかな丘の頂上に多賀城碑が外柵に囲まれて静かに佇んでいます。高さ約2.3メートルの花崗岩製石碑は、台石と一体化した堂々たる姿。四方を取り囲む外柵は黒く塗装された木製で、アンティーク風の意匠が施され、石碑をしっかりと保護しながらも外観の景観を損ないません。かつてはこの外柵だけがぽつんと置かれていたため、石碑の存在感が孤立していましたが、参道からの視線を誘導する再整備により、鳥居との一体感が格段に増しています。
写真撮影スポットとしても人気で、鳥居と石碑を一枚のフレームに収める構図は、まるで古代と現代が交錯するようなドラマティックな一瞬を切り取ります。背後には緑あふれる丘陵と夏空が広がり、石碑の歴史的重みを一層引き立てています。訪れる人々は、まず外柵の隙間から碑文を覗き込み、文字の深さと刻まれた千三百年の時を感じ取っているようです。この日は私もちょうど一眼レフカメラを持参していましたので撮影してきました。16ミリレンズで撮りましたがボランティアガイドさんが観光客のグループに説明中の脇からお邪魔して撮りましたので、細かい文字まで描写できなかったのが残念です。
多賀城の歴史:奈良時代の築城と行政拠点としての役割
多賀城は奈良時代の神亀元年(724年)築かれました。律令制(りつりょうせい)下の「国府(こくふ)」「郡衙(ぐんが)」の整備事業の一環で、東北地方(当時の陸奥国〈むつのくに〉)支配の要として設けられたものです。
- 平面構造:南北約900m、東西約700mの長方形。外周は二重の土塁と内外2条の水濠(すいごう)で囲まれ、四隅に角楼(かくろう)が建てられました。
- 主要施設:政庁(せいちょう)・正倉(しょうそう)・倉庫群・役所群などが南門から一直線に配置され、朝廷から派遣された役人が行政や税収管理、戸籍編成を行っていました。
- 軍事的役割:蝦夷(えみし)討伐の拠点としても機能し、兵士の駐屯・武器の備蓄を担いました。特に北方警備の最前線としての重要性は高く、将来的に坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が指揮を執る土台を築いています。
当時、多賀城周辺には官衙町(かんがまち)と呼ばれる武官・役人や商人、職人の住む集落が形成され、東北各地からの産物が集まる交易拠点としても栄えました。律令国家の地方統治と東北開発を象徴する遺跡として、後世に大きな影響を与えたのが多賀城なのです。
多賀城碑が語るもの:碑文の内容と意義
多賀城碑は、天平元年(729年)に刻まれた石碑で、高さ約2.3m、花崗岩製の碑面には約200字ほどの漢文が丹念に彫られています。碑文の冒頭には、修築の起点、費用の捻出、人員配置などが詳細に記録されています。
建立の背景
- 築城から5年後、風雨や蝦夷の襲来に備えるため大規模な修築が必要となったこと。
- 朝廷から派遣された有力貴族(藤原不比等など)の命令による中央集権的建設事業であること。
碑文の構成
- 緒言:修築事業の時期と発起者の官位・氏名
- 事績報告:土塁築造、水濠浚渫(しゅんせつ)、門楼の再建、石材・木材調達先
- 人員動員:工事に動員された兵士・職人の数と所属郡名
- 費用支出:布帛(ぬの)はじめ物資支給の記録
歴史的意義
- 多賀城の管理体制や資材調達ルート、中央-地方の連携体制を示す一次資料
- 律令制下の地方建築事業の規模感や、蝦夷対策の緊迫度を物語る証言
文化的・学術的な価値
- 東日本最古級の石碑の一つとして、漢文書体や碑刻技法を研究する上で貴重
- 当時の官吏がどのような理念で地方行政を運営していたかを伝える「声なき声」
碑文を読み解くことで、奈良時代の最前線であった多賀城が、単なる軍事拠点ではなく、中央権力の意志と地元民の協力で築かれた巨大プロジェクトであったことが浮かび上がります。
坂上田村麻呂と多賀城:軍事拠点としての発展
平安時代初期の8世紀末から9世紀初頭にかけて、蝦夷(えみし)討伐を担った征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は、多賀城を東北地方攻略の最前線拠点として大いに活用しました。
田村麻呂は、延暦(えんりゃく)16年/797年に征夷大将軍に任じられ、陸奥国(むつのくに)へ出陣。多賀城周辺に兵站(へいたん)──前線部隊への物資補給と兵員配置を担う施設──を整備し、北方警備の強化を図りました(日本後記)。
- 兵力・兵器の集結
多賀城には常時兵士が駐屯し、弓矢や槍(やり)などの武具を保管する倉庫群を築造。 - 防御施設の改修
従来の土塁・濠に加え、木柵(もくさく)や見張り台を増設し、敵の奇襲に備えた連絡路と哨所(しょうしょ)を城外に配置しました。 - 前線基地としての役割分担
本城(多賀城)では高級将校の本部機能を保持し、隣接する丘陵地には仮設陣営を設けて移動拠点としました。これにより、迅速な機動作戦と補給ルートの確保が可能となりました。
これらの整備は、蝦夷の本拠地である胆沢(いさわ)方面への遠征を円滑にし、田村麻呂が得意とした夜襲戦術や伏兵(ふくへい)作戦を支えました。また、帰還後には軍事報告を多賀城碑の修築・再刻に反映させ、最新の防御設備や兵站情報を刻文に記録させています。
田村麻呂の後、平城(へいぜい)・平安時代の律令体制衰退とともに多賀城の軍事的重要性は徐々に薄れましたが、彼の時代における拠点整備の痕跡は、現在の考古調査でも土塁の拡張跡や武具片として確認されています。こうした遺構は、当時の最前線基地としての多賀城の息吹を今に伝える貴重な証拠なのです。
観光ガイドと見どころ:現在の楽しみ方

現在、多賀城碑周辺では地元のボランティアガイドが常駐し、無料で解説ツアーを行っています。受付で「ガイド希望」と声をかけると、歴史的背景から碑文の読み方、鳥居と石碑を一枚に収めるベストアングルまで、丁寧に案内してくれます。
写真スポットとして人気なのは、朱鳥居をフレームの上部に、石碑を下部に配置する構図。背後の緑と青空を取り込むことで、訪れた証をSNSにシェアしたくなる一枚が撮影できます。
また、石碑前にはベンチと解説パネルが設置され、碑文の原文・現代語訳・築造当時の地図などが掲示されています。ゆっくりと腰掛けながら、1300年前の石工や役人たちの息遣いを感じられるのが魅力です。
春と秋には地域の歴史講座や野点(のだて)イベントも開催されます。家族連れや歴史ファンだけでなく、写真愛好家にもおすすめです。
この碑は「壺碑(つぼのいしぶみ)」とも呼ばれ、江戸時代初めの発見当初から歌枕「壺碑」と結びついて広く世に知られていました。
松尾芭蕉も旅の途中にこの碑を訪れ、深い感動をもって対面した様子が「おくのほそ道」に記されています。
引用:宮城県多賀城市の文化財ホームページより
実際に感じた歴史の重み

朱の鳥居をくぐって石畳の参道を進むと、足元から歴史の息吹が伝わってくるようでした。石碑の前に立つと、周囲の喧騒が消え、風に乗って遠い奈良時代の鼓動が聞こえてくるかのようです。ボランティアガイドの方が熱心に碑文の解説をされる声に耳を傾けながら、当時の石工や役人の努力、そして蝦夷との緊張感に思いを馳せました。
観光客の皆さんも、スマートフォン越しではなく直接石碑を見つめ、刻まれた一字一句をじっくり読み解いています。鳥居をフレームに収めようとアングルを探す写真愛好家──それぞれの視点から多賀城の歴史を受け止め、共有する姿が印象的でした。
日差しが強かったため、石碑の陰で小休止。草むらを吹き抜ける風は、舗装路を歩くときとはひと味違う、涼やかな心地よさを運んできてくれました。手にした写真を見返すと、朱色の門と灰色の石碑が織り成すコントラストが、時空を超えた対話の瞬間を切り取っており、まるで私自身も一部となって歴史のページをめくっているようです。
歴史を感じるひととき

再建された門と石碑が織り成す景観は、往時の軍事・行政の要衝としての威厳を現代に伝えながら、訪れる人々に中央集権国家と地方が交わった壮大なドラマを想起させます。
快晴の夏空と涼風、そしてボランティアガイドの温かな解説が、歴史の重みを五感で感じさせてくれる多賀城碑は、単なる遺跡以上の“生きた教科書”といえるでしょう。草むらを渡る風の香りが、古代人の一員にしてくれる場所です。
朱色の門の下で時代を超えた対話を楽しみ、石碑に込められた人々の情熱と思いを胸に刻む──そんなひとときを、多賀城碑はいつでも提供してくれます。
多賀城碑 国宝
参考と引用:宮城県多賀城市の文化財ホームページ
史都多賀城 観光ボランティアガイド
JR東北本線国府多賀城駅などを拠点に、観光客へ多賀城政庁跡や歌枕の地などを案内します。多賀城南門公開、多賀城碑国宝指定により、昨年の倍以上の観光客が訪れていることから多賀城市観光協会で募集しているもの。研修後に活動。