〜仙台バイパス雨の午後〜
6月、その日の仙台は、天気予報通りの雨だった。いや、天気予報が当たると嬉しい時もあるけれど、こうも連日どんよりしていると、正直うんざりする。フロントガラスを打つ雨粒をワイパーが律儀に払い続ける。タクシーの車内は静かで、仙台のラジオ局・デートFMからは湯原昌幸の雨のバラードが。まさに、ドラマのワンシーンのような午後だった。
そんなとき、仙台バイパス沿いのパチンコ店から中年の女性が小走りでこちらにやってきた。小雨の中、傘も差さずにハンドバッグを抱えている。乗り込むなり、こう言った。
「泉パークタウン高森までお願いします」
声に元気がない。長年運転手をやっていると、そういうのはすぐにわかる。なんとなく重たい空気が漂う中、沈黙を破って彼女が話しかけてきた。
「今日もダメだったわ……」
よくある「勝てなかった話」だと思い、「そうでしたか」とだけ返すつもりだった。でも、ついうっかり口が滑った。
「どうされたんですか?」
この一言が、まさかの重爆弾の導火線になるとは。
「……500万円の通帳に穴、開けちゃったの」
一瞬、何のことかわからなかった。穴?通帳に?まさかパチンコで通帳にドリルを使って穴開ける謎ゲームでもあるのかと、脳内に「???」が渦巻く。私の反応が遅れたのを察したのか、彼女が少し説明してくれた。
「いやね…、2ヶ月で500万円、パチンコで使っちゃったの」
「ええええぇっ……!」
つい、声が裏返った。これまでの運転人生でもなかなか聞いたことのない金額。いわゆる“パチンコにハマった人”は何人か見てきたが、短期間でこれほどの規模は初めてだった。新記録、堂々の更新である。
そこから、彼女はぽつぽつと語り始めた。
「4月に夫の転勤で横浜から仙台に引っ越してきたの。私も25年勤めた会社を辞めてきたのよ。子どももいないし、知り合いもいない。だから時間がたっぷりあるわけ。で、ある日、買い物帰りにパチンコ屋にふらっと入ってみたの」
人生初のパチンコ。最初は2万円勝ったそうだ。それが運の尽きだった。
「こんなに簡単にお金って増えるのかって思っちゃってね。毎日通うようになったのよ。勝った日もあったけど、気づいたら通帳の数字が減ってて……今日で500万円、とうとうゼロになっちゃった」
通帳に“穴が開く”というのは、つまり預金残高が見事に空っぽになったということだった。比喩が強烈すぎて、思わず「穴」という言葉を選んだのだろう。ある意味センスを感じる。
「夫にはパチンコしてることも、この通帳のことも内緒。別に同じ額の通帳があるから、そっちは無傷なのが救い」
“無傷の通帳”という表現も、なかなかのパンチ力である。サスペンスドラマだったら、後半に明かされる重大な秘密だ。ちなみにこの金額、自慢じゃないが私の年収の2年分だ。
「でもね、今日でパチンコとお別れしたいの。さすがに反省してる」
私は、そっと言った。
「お疲れ様でした。せっかく授業料500万円かけて学んだことですし、肥やしというか糧というか、今後に生かせたらいいですよね」
言葉足らずだったかもしれないけれど、それ以上の言葉は見つからなかった。
しばらく車内は静かになり、外の景色が流れていく。泉中央駅を過ぎ、将監団地のあたりまで来ると、彼女の表情が少しやわらいだ。
「実はね、今日こうやって話したの、運転手さんが初めて。他に誰にも言うことができなかった」
「ずーっと気持ちが暗かったけど聞いてもらって体も軽くなった気がする。」
「それは……光栄です」
運転手冥利に尽きるというか、なんというか。時々こういう“人生の断面”に触れる瞬間がある。それがこの仕事の不思議なところだ。
やがて目的地、高森に到着。立派な家だった。木製の扉がついた広々とした車庫。なんとなく、彼女の生活ぶりを物語っていた。
支払いはカード。小さく「ありがとうございました」と言って、彼女は雨の中に消えていった。
去り際、ふと心の中で思った。
——これで本当に、パチンコと縁を切れるのだろうか?
でも、それを決めるのは彼女自身だ。私はただ、彼女の“500万円の午後”を、静かに運んだだけのこと。